10:44 AM

日々

「赤ちゃんを育てていて何が辛いんですか?」

他の患者さんから聞かれた。別に娘に怪我をさせたとか、自分の不注意で事故に合わせてしまったとか、そういうのではないのに何が辛いのかと。初めての子なら育児が上手くいかなくて当然ではないかと。至極真っ当な問いである。自分の辛さを分析するためにもこの問いに答えてみようと思う。

私が辛くなったのは、里帰り出産で産んですぐ後だ。

産まれた時、娘は新生児多呼吸ですぐにNICU(新生児特定集中治療室)に連れて行かれた。母子同室の病院であったが、そのため出産後の入院期間の大半は離れて過ごした。娘に面会できるのは1日に1時間半だった。最初は母親である私の退院に娘の退院が間に合わないと言われたけど、娘は頑張ってくれて、入院最後の晩は共に過ごすことができた。

退院後、私は(新米ママさんがおそらく皆そうであるように)戸惑った。生まれて初めて新生児と過ごすのである。2時間に1度のミルク(私は母乳が出なかった)。娘はミルクをゴクゴクと音を立てて飲んだが、さて何ml飲んだかなと哺乳瓶をひっくり返しても全然減っていなかった。一回の授乳に40分かかるのはザラだった。夜の寝かしつけにも苦戦した。寝ない。ミルクをあげて、飲むのに疲れて腕の中で寝たとしても、布団に寝かせると目を覚ます。背中スイッチとは言い得て妙だ。そして夜泣き。いつ娘が起きるのかわからない緊張で私は眠れなかった。夜中に一回泣かれ、オムツを替えてミルクをあげて、また寝かしつける。やはりなかなか寝てくれない。これに1時間。初めて夜を一緒に過ごした時、何をやっても寝てくれなくて泣いた。ミルクをあげて抱っこしても何時間も寝ない。その時は母がもう一度ミルクをあげたらすんなり寝た。自分の情けなさに泣いたら、初めてなんだからわからなくて当然じゃん、と言われた。

母は産後間もない私を気遣ってくれ、娘が産まれてから実家にいた1ヶ月半の間半分以上夜を担当して私を寝かせてくれた。恵まれていたと思う。だが私の心は休まらなかった。朝起きるのが辛い。娘と会うのが辛い。朝起きて娘の顔を見るとネガティブなことを考えてしまう。そんなことを考える自分に驚き、必死でその思いを打ち消す。可愛いとも思えない。

母はなかなか朝起きられない私に苛立っているように見えた。母だって、夜中起こされ孫娘の面倒を見るのは楽ではない。母が自分に対して常にイライラしているように見え、母との関係がギスギスし始めたー母はそうは思っていなかったようだが。私は実家から逃げ出したかった。コロナ禍での里帰り出産のため、兵庫の自宅と実家との間を行き来できず6月からずっと夫と離れて暮らしていた。夫と一緒に育児がしたかった。

夫が11月から2ヶ月半育休を取ってくれたのに合わせて、兵庫の自宅に戻った。夫と2人であれば、時間のかかる寝かしつけも、深夜起きるのも少し気が楽だった。だが娘を可愛いと思えないのは続いた。日中も全く楽しいと思える瞬間が無い。ひたすら辛いという感情だけがある。一緒にベビーカーで近くの公園に散歩に出ても辛い。近くのショッピングセンター(ファミリー向けで、ベビーカーでどこにでも入れる)にコーヒーを飲みに行っても辛い。とにかく気分が晴れない。常にミルクやオムツのことを気にかけ、大丈夫かとオロオロする。夜はバタバタと、ご飯を作ってご飯を食べて娘をお風呂に入れて寝かしつける。息つく暇もない。夫の育休が明けたら私一人でなんとかなるのか、私も周囲も心配だった。

生後3ヶ月ごろから、娘は夜寝てから朝まで一度も起きないでいる日が増えた。手がかからない子なのに、苦しんでいる自分が情けなかった。

1月半ば、夫の育休が終わり、平日日中は私一人で娘の面倒を見ることになった。最初の2週間は頑張れたが、その後崩れた。身体が動かなくなった。とにかく身体を起こしているのがしんどい。娘の隣に布団を敷き横になり、最低限ミルクをあげてオムツを替えることだけして、あとは死んでいないかを見ているだけの日もあった。泣いてもすぐに抱っこできず、泣かせっぱなしにしている時間も多かった。赤ちゃんは放っておいても機嫌良くしてくれているわけではない。赤ちゃんだって、天井を見てばかりいてもつまらないのである、多分。娘は生後2ヶ月ごろから、抱っこして歩き回らないと泣くようになった。これが私にはキツかった。要求に応えようとしても、抱っこして部屋をぐるぐる回っているだけなのは精神的にも、身体的にもキツい。腕がパンパンになる。泣かせっぱなしにしていると、罪悪感で身を切られるようだった。

決定的だったのは、2月からの離乳食の開始である。市の保健師さんの言う通り、生後5ヶ月から食べさせ始めたが、とにかく食べない。嫌がって泣く。怒る。「アレルギーが出た時のため初めて食べる食材は赤ちゃんが機嫌のいい午前中にあげましょう」(小児科に行けるから)というのがどの離乳食本にも書いてあることで、これを実行すべく、娘が一日の中で一番機嫌のいい寝起きに食べさせようとしたのだが、私は朝が弱い。朝起きて、不慣れなまま食材をチンして、食後のミルクも用意して娘にあげるが、食べてもらえない。全然離乳食本通りに進まない、そんなスプーンに何杯も食べない。それが毎日、何週間も続く。これが地味にこたえた。はっきりとした希死念慮に苛まれるようになり、「死にたい」という気持ちで目が覚めるようになった。

そこで、市役所に相談した。子ども福祉を担当する部署の人に電話をかけて、離乳食が始まってから死にたい、と話した。市の人はゆっくり話を聞いてくれて、まず離乳食は朝一番にあげなくても良いと言い、市の栄養士さんが私の家を訪問するよう手配してくれた。栄養士さんがうちに来て何するんだ??と思ったが、その栄養士さんは離乳食のプロで、実際に私が娘に離乳食をあげるところを見て、色々とアドバイスをくれた。曰く、娘は生まれて初めてミルク以外のものを口にしていて、脳がびっくりしているのだと。ほんの少しだけ口に入れてすぐに手を引っ込める。たとえ微妙な顔をしていても口をあむあむしていれば、それが味わっているということ。今はとにかくミルク以外の味に慣れてもらうのが大事で、量は全く気にしなくていい。

栄養士さんはその後1ヶ月ほどの離乳食スケジュールも立ててくれた。非常に楽しく温かい方で、私はプロの意見が聞けて少し落ち着いた。

 

踏切に行って自殺しようとして失敗した、というツイートをしたら、何人かの方から「医師の診断書があれば保育園を利用できる」との情報をいただいた。市の保健師さんに聞いたところ、親の障害・疾病も保育の事由となると言う。私の街では、精神障害者手帳の2級以上があれば診断書がなくても手帳だけで申請ができる。保育園!働いていなければ利用できないと思っていたが、利用できるのか…

こんなに小さくて、まだ0歳なのに預けていいのか?と悩んだ。しかし、身体が思うように動かない時間が多く、申請しようと決めた。

3月終わりから4月頭にかけては、子育て支援センターに何回か行った。支援センターには3歳以下の子供が遊べる部屋があり、おもちゃも沢山置いてあって、職員の方とも話せるし、他の子供の親とも交流できる。そこでハイハイする他の子を見て、その速さにゾッとした。「今、娘は横になっているだけだから、私が鬱の時にも寝かせっぱなしにしておけるが、動き始めたら本当に目が離せない。私一人では安全を担保できない。」果たして保育所の申請が通るか、不安に悩まされるようになった。多くの子供が入所する4月入所の申請には間に合わず、5月入所で申請書を提出したのも、大きな不安要素だった。

保育園に入ってすぐの頃は子供はよく熱を出すと聞く。たとえ申請が通ったとして、子供の病気に都度対応できるのか?取らぬ狸の皮算用もいいところだが、そんな不安にも襲われた。

幸い、第一希望が通り、家から一番近い保育園に通えることになった。しかし今度は「娘が病気になったらどうしよう」という不安が胸を占めることになる。きちんと小児科に連れて行けるのか。熱を出して、吐いたり下痢をしたり、ぐずりつづける子供の面倒を見られるのか。

不安を抱えたまま、GWに突入。長期休みに入った夫に娘の世話をほとんどお願いし、ほぼ寝込んでいた。辛くて辛くて、とにかく泣き続けた。夫が娘を連れて義実家に帰り、しばらく一人にしてくれた時も私は泣き続け、ほとんどの時間を布団で過ごした。

離乳食も頭を悩ませ続けた。思うように進まない。食べてくれない。頭では適当でいい、食べない子は食べない、進み方は人それぞれ、とわかっていてもダメ。テキトーに、と言われても、具体的にどう行動すればいいのかわからなかった。それよりも自分を責めた。私の今までの進め方が悪かったのではないか。私の離乳食の作り方が悪いから食べてくれないのではないか。本当は栄養を色々摂らなくてはいけないのに、こんなに食べなくて大丈夫なのか…という不安もあり、離乳食をあげるたびに号泣していた。

GW明け、慣らし保育がスタートした。初めて保育園に預けた日の感想は、「たとえ1時間半であっても、保育のプロに預かってもらえて、安全が担保されているというのは良い」というものだった。短い時間でも休めるのがありがたかった。

保育園3日目の朝、娘の体温は37.5°だった。登園できないので休ませる。昼になるに連れ熱は上がり、38°を超えたため小児科に連れて行き、下剤をもらった。

その次の週、義母から「入院すべきだ」と言われた。最初、私は呆然とした。幼い子を置いて入院?そんなことできるのか?しかし義母は自分が娘の面倒を見るという。私はとにかく休みたかった。泣きながら、震える手で「入院したいです」と返事を打った。私は娘が保育園から帰ってくるのが怖かった。娘が怖い。娘の顔を見ただけで泣くようになり、娘が怖くて触れなくなった。義母と実母の助けを得て、主治医から紹介状を入手し、入院できる病院のある故郷へと帰った。

 

そもそも子育ては無職で好きな時間に休んでいた頃に比べれば体力的・精神的にハードモードであるのだが、まず「辛い」という感情が確固たる理由もなく心を支配し続け、娘に対してネガティブな感情を抱き続ける自分自身に罪悪感・嫌悪感を抱き、楽しい感情が一切湧いてこないことに苦しみ続けた。日中娘の世話を一人でしなければならなくなってからは、身体が思うように動かせない、身体を起こしていられない苦しみに加えて、娘の世話を十分にしてやれない、泣いていても泣かせっぱなしにしている罪悪感に苦しんだ。そして、自分自身不合理だと思うが、とにかく自責の声が大きく聞こえてしまうのである。子育ては適当でいい、育児ノイローゼになるのは皆んな一緒、などと色んな人に「大丈夫、そんなもんだよ」的なことを言われても、私の脳は私を責め出す。子育てしている他人と比べて、「普通の人と比べて気力体力が昔から劣る自分は、子供なんて産むべきじゃなかった」と自分を責める。

今まで鬱に襲われた時、私は逃げることで最終的に解決してきた。サークルから逃げた。仕事から逃げた。休職と復職を繰り返して、最終的に気力が尽き会社を辞めた。もちろん、そこまでに散々足掻くしもがくのだが、最後は逃げている。だが、子育てから逃げ出すことはできない。生み出した命をなかったことにはできない。

今、私は一時的に病院に逃げている。しかし、いずれは娘の元に戻らなければならない。これまでのように、逃げ続けることはできない。今回の治療が功を奏すことを願うばかりだ。