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普通の会社員だったはずが持病のせいでレールを外れた人生を送ってるけどそれはそれで楽しいブログ

「あなた方の中に、祝福されない言語はありますか」- The Irish Language and Beauty

言語は歴史、生活、習慣、文化、遺産、社会、魂…その他ありとあらゆるものを映し出し、また逆に影響を与えるものです…と、わかったように言っていますが、私自身、日本語について調べれば調べるほど、そして中国語を学べば学ぶほど、言語というものについて考えさせられます。単なる伝達の手段だとは到底言えないのです。

 

更に、私は台湾語という台湾のローカル言語(中国語とは全く違うもの)も話せるようになりたいと考えています。元々は中国の福建省あたりの方言が台湾で独自の進化を遂げたものですが、北部よりも南部で話され、若い人よりも年配の人の方が話します。台北の若い人には、台湾語を(片言を除いて)話せない人も少なくありません。

中華民国政府により、かつて学校では台湾語を話すことが禁止されていた時代がありました。最近では台湾語の重要性が見直され、小学校で教えられているようです。

 

言語とは一体何なのか。

ネイティブスピーカーの減少が深刻で、絶滅が危惧されている言語、アイルランド語に関するTEDの動画をご紹介いたします。

ちなみにアイルランド語のネイティブスピーカーは、国民の約2%です。


The Irish Language and Beauty | Dónall Ó Héalaí | TEDxBerkeley

全編英語、日本語字幕なし。自動生成の英語字幕はありますが、アイルランド語の部分については綴りがアテにならないと思われます。

今回も、日本語にて内容を書いていきます。アイルランド語の響きや、途中出てくるアイルランド語の歌については日本語の文字では伝えられないため、たとえ英語の聞き取りに自信がない方でも、良かったらこの記事を読んだ後に動画を見てみてください。

 

私は、自分の言語の優位性に無自覚な人間が嫌いです。私自身そうかもしれないので、自戒を込めての発言ですが。
2011年、初めて就職のために関西に引っ越してきた時に、大阪出身の同期が言いました。

「標準語?東京弁の間違いやろぉ」

細かいことを言えば、彼の発言は間違っています。標準語は確かに東京地方で話されていた言葉をベースに作られましたが、「東京弁」や「東京方言」と現代で言う時は、「山の手言葉」(ごきげんよう、ざ(あ)ます、あそばす)や「江戸言葉」(下町言葉ともいう。べらんめえ調など)を指します。いずれも標準語とは異なるものです。

まあ、そんなことは別として、関西人が関西弁を日本中どこでも話し、場合によっては海外ですら話し続けるのは、「関西人としての誇りやアイデンティティが強いから」がメインの理由ではありません。

「関西弁がお笑いなどを通じてテレビでよく放送され、全国の人がそれを理解してくれるのを(意識せずとも)わかっているから」、です。

私は新潟の出身です。新潟市はそれほど方言が強くないというのもありますが、私が東京含め他の地方に行った時に新潟弁を話さないのは、「話しても理解してもらえないから」です。これは新潟に限った話ではありません。他の地方出身者も、地元の方言を他地方の人の前で話さないのは、話しても通じないからです。

これは台湾に行っても思います。台湾、特に台北では日本語が通じる場所が多いです。ホテルやお土産屋さん、レストラン…正直中国語が話せなくたって、台北なら日本語だけでほぼ観光できます。しかし、相手が日本語を理解してくれるからといって、タメ口で店員さんなどに日本語で偉そうな口をきいているオッサンを見ると、私はぶちのめしたくなるのです。「日本の恥だ、日本に帰れ」と。

私はいわゆるエセ関西弁を話します。関西出身ではないくせに、関西弁を話します。私自身はノンネイティブ関西弁と呼んでいます。2011年に関西に赴任してから会社を辞めるまでの8年間、私は関西のおばちゃん先輩社員2名に仕事を教えられました。他の課の関西出身の女性たちにも、落ち込んでいるところをよく励ましてもらいました。

それなりの長い年月のうちに、彼女たちの―いわゆる関西のおばちゃんの―思考回路が、言葉とともにインストールされました。しんどい時は「それ以上無理したらあかんて」「そんなのやめとき」、ヤバい時は「どうにかなるで。絶対大丈夫やで」、人に言われたことに傷ついている時は「そんなの気にしとかんとき」など。

関西弁でのコミュニケーションにおいては、人と人の距離が標準語よりも近い気がしています。おじちゃんもおばちゃんもやたらと飴をくれます。「関西人って思っていることを遠慮なくズバズバ言いそうで怖い」という他地方の人もいますが、正直それは人によりけりです。相手の気持ちを考えて言葉を丁寧に選ぶ人もいるし、おっしゃる通り無神経にズバズバ言ってくるクソもいますが、それより某かつての都の人が「表向きは上品で、本音を言わないけど裏で腹黒いことを考えている」(一部ですよ多分!)方が怖いです。

いまや私は、「なんでやねん」を習得する前に自分がどのような言葉を使って他人にツッコミを入れていたのかが思い出せません。新潟や東京にはそもそもボケとツッコミの文化がないから、誰かがボケたらボケっぱなしだったのか…?冷めた目で見られただけだったのか?

 

※ツッコミはある種の優しさです。コミュニケーションが苦手な人がちょっと変なことを言っても「拾って」、みんなで仲良く盛り上がる。バレーボールで言えば、ボールが落ちないように常にみんながスタンバッていて、ボンボン打ち上げまくっているようなもんです。

 

少数派の言語を保護するべきかについては議論があるようです。結局言語の保護とは他人の子育てへの口出しであり、そんなこと誰もやっていいことじゃない。少数言語を話すより、多数派の言語を話すことが生きる上で有利になるのなら、そしてそれが死活問題であればあるほど、親は少数言語を子供に教えようとはしないでしょう。台湾やアイルランドのように、国策として政府が義務教育化でもしない限り(※成功しているかは別の話です)、「自然に任せる」しかないのかもしれません。

ただ、ひとつの言語が失われることに対して言えることは、先ほどのTEDのスピーチの言葉を借りれば"Loss of beauty."世界から美しいものがひとつ消えてしまう。言語の違いとは、世界をいかに切り取るかの違いです。

 

世界の切り取り方、認識の方法がひとつ消えるということ。それは確かに、寂しいことに違いありません。

 

※ものすごく昔に書いた下書きが残っていたから修正してアップしたんだけど、関西弁の箇所が関西電気保安協会の記事とほぼ被っていた。お詫びします(直す気力はない)