10:44 AM

日々

『白銀の墟 玄の月』読了

小野不由美著『白銀の墟 玄の月』、全4巻を読み終えた。中学生の頃貪るように読んだ十二国記シリーズの最新刊(2019年発行)。シリーズとしては6年ぶり、長編としては18年ぶりの刊行。いやはや長かった。待っていた期間も長かったが買ってから放置していた期間も長かった。達成感でいっぱい。驍宗さま、ファンはずっとお待ち申し上げておりました。


活字は苦手だ。中学生の頃までは色々と読んでいた記憶があるが高校に上がってからめっきり弱くなってしまった。鬱が酷い時は更に読めない。それでも今回入院するにあたり、『白銀の墟 玄の月』を持ってきて良かった。意外にもするすると読めた。子供を産んでからは本を読む時間もなかったが、こうしてゆっくり本に向き合う時間を与えてくれたことを家族に感謝したい。


今日の気分は10点満点中5点だろうか。可もなく不可もなく。朝の2時半ごろに中途覚醒してから6時ごろまで眠れず、その後7時半に朝食の時間を告げる放送で起きた。

病院の中の喫茶店Wi-Fiが飛んでいることを思い出して、コーヒーを飲みながら音楽や動画を時間の許す限りダウンロードした。スマホでできることは多いが、何をやるにしてもデータ通信量を食う。Wi-Fi無くしては音楽のストリーミングサービスもYouTubeNetflixも無力である。


脳に出来物があり鬱を発症する場合もあるそうで、MRIの検査を受けた。部屋に入ると巨大な機械は生き物のような音を立てていた。少し不気味。大きな音のする検査で、耳に枕を当てられ、頭部を固定される。だいたい10分ぐらいで終了。

「関西のオカンたち」というコミュ力お化けに守られていた話。

重い鬱に悩まされていた大学時代。キャンパスが牢獄のように思えて脱出したいと必死に就職活動をした。

入社1年目から3年目まで、2人の関西人女性の先輩の下で働いていた。その頃も鬱には悩まされていたが、仕事には行けていた。お二人ともとにかく温かく、世話焼きで、人柄が良かった。すぐ凹みがちな私は、他の関西人のおばちゃんたちにも励ましてもらいながら働いていた。

(この話は昔の記事「ノンネイティブによる関西弁解説ー別に怖い言語でもキツい言語でもない」にも書いている

https://elaineintherain.hatenablog.jp/entry/2020/07/31/221407)


これまでコミュ障だった自分が、常に取引先と接しなければならない職務内容と先輩方のお陰で脱せた気がしていた。しかしASDはコミュニケーションに難を抱えがちな障害である。「ASDに診断されたということは、コミュ障に見られたということですよね?」ー他の患者さんに言われた。ASDイコールコミュ障というのは言い過ぎかもしれないが、「ASD」でGoogle検索してみて真っ先に出てくるのは「他者とのコミュニケーションが取れない」と「興味や活動が偏る」だったりする。


そうか!私はコミュ障を完全に脱した訳ではない。関西のオカンたちというコミュ力お化けに守られていただけだったのだ。(※当然ながら、関西のおばちゃん全てがコミュ力お化けな訳ではありません)

それまでの私は、集団に馴染めないことが少なくなかった。クラスの中で、サークルの中で精神的に孤立しがちだった(上手く受け入れてもらっていたこともある)。彼女たちが温かく仲間に迎え入れていてくれたから、何とかその3年間は孤立することもなくやってこれたのだ。


関西人全員がコミュ力お化けだと言うつもりは毛頭ない。だが、大雑把に言って、関西人は誰かがスベってその場が凍りつくことを嫌う。耐えられないと言ってもいい。誰かが拾ってくれて、みんなで笑ってその場を収めようとする。だから、天然ボケをかましたとしても誰かが必ずツッコんでくれるのだ。


現に、体調を崩して会社を休むようになったのは関西のおばちゃん達の元を離れてしばらく経ってからだった。相談しやすい準管理職のポジションが欠如している課に配属された。自分の上がいきなり部長だった。それをなんだかなあとは思いながらも仕事を進めていたが、そのうち諸々のストレスに耐えられなくなって倒れてしまったのだろう。いやはや情けない。(この時どうすべきだったのかは、医師と相談してみたい。仕事でも子育てでも、こんなもんだろ、他の人よりも特にプレッシャーが大きい訳でもないし、とストレスに耐えているうちに身体が悲鳴を上げている。いわゆる「普通」の人はどのように対処するのだろうか?)

 

では、私は今後どう生きていけばいいのか。コミュ力お化けを探し、頼り、生きていくのはなんだか生き方として違う気がする。強者に寄生するような生き方ではなくて、自分できちんと人との関係を結びたい。そういう道筋が立てられるかなあ。立てられるといいなあ。

自分のトリセツ

今日の気分は10点満点中7点か8点。このように点数化して自分を把握することをセルフモニタリングといい、それも治療になるらしい。

 

今朝は天気が良く、朝いつもはダルくてなかなか聴けない中国語講座を2本聞き、ラジオ体操も第一第二こなせた。その後認知行動療法の2回目を行い、私は一般論から外れる(たとえば離乳食本に書いてあるとおりに娘が食べてくれない など)と不安になりがちで、なおかつ心配症であることが明らかになった。不安に対する治療法もあるから今後やっていってくれるそうだ。

 

ASDと診断されてから、これまでの人生を振り返ると思い当たるところが色々とあり、ははあこれまでの生きづらさはそういうことだったのか、と感じている。自分のトリセツが与えられたような感覚だ。これから知能検査や心理検査などで更に深く自分の特性を理解し、簡単に暴走しがちな思考の手綱を握れるようになりたい。私はもっと、ラクに生きたいのだ。

ねむねむな2日間

口角炎ができており気になる。給食のお米が200gと多いのを食べ続けて胃腸に負担をかけているのだろうか。

 

病棟では朝と夕方の2回、体温と血圧を測る。

ここのところ血圧の上が80以下になることが続き、立ちくらみもする。元から血圧低めの私であるが、それでも低い。

昨日は日中猛烈に眠くて、朝から晩まで寝ていた。看護師さんに身体を起こすのを手伝ってもらわなければ昼食も食べられなかった。夜眠れないのではないかと心配したが、夜7時ぐらいからトロトロ眠りだしてそのまま朝まで爆睡してしまった。ちなみに消灯は9時。

今日もほぼ眠っていた。お昼頃風呂の割り当て時間が来て、熱いシャワーを浴びれば目が覚めるかと思いきや、気がつくと横になって眠っていた。午後もとにかくやる気がなく、本にも漫画にもテレビにもラジオにも手が伸びない。やはり横になって布団にくるまってしまう。気がつくと寝ている。夕方ごろから回復して他の患者さんと少し喋った。

 

娘と一緒に暮らしていると、たとえ調子が悪くても眠ってはいられないので休みたい時に休めるのはものすごい贅沢なのだが、だからといって楽しいわけでもない。退院する頃にはこのような「眠り続ける日」がなくなっていてほしい。毎日朝早くに起きて、日中は意識がはっきりとしていて、夜は自然な眠気に誘われて早く寝る。そんな暮らしができるようになっていたい。

娘、可愛い。

入院中、夫や義母が送ってくれた娘の写真や動画を延々と見続けている。

娘は可愛い。親バカだと思うが可愛い。肌はすべすべ。ほっぺも腕も脚もぷにぷにしている。笑った顔が可愛い。喃語が可愛い。娘はよくおしゃべりする。そして無垢。天使である。


夫とのビデオ通話で娘の顔を見ても可愛いと思う。私を母親と認識してくれているのかはわからないが、にっこり笑ってくれる。データ通信量を気にしないのならいつまでも通話していたい。


どうしてこんなに可愛い子が私の元にやってきてくれたのかと思う。それと同時に、何故こんなに可愛いのに子育てが辛かったのか、疑問に思う。わかっている。今は離れているから、安全圏にいて無責任に可愛い可愛いと言えるだけだ。自分に責任がなければ、赤ちゃん含め小さい子はみな可愛い。

実際に子育てに当たれば、朝は何時だろうと彼女が起きた時間に自分も起きなければならないし、離乳食だってミルクだって用意しなければならないし、オムツだって替えなければならない。そして一緒に遊んでやらなければならない。その間に大人のご飯の調理や掃除などの家事もしなくてはいけないし(ほとんどやっていなかったけど)、常に安全には気を配らなければならないし、娘が体調を崩そうものなら小児科に連れて行かねばならない。全部当たり前のことだが、私には全て相手のペースに合わせるのが辛かった。常に気を張っていた。可愛いのは頭ではわかっていても、心落ち着く暇がなく余裕がないため「大変だ」という気持ちが先に来てしまう。他のお母さんは上手く息抜きできているのだろうか。私は娘が昼寝している間もずっと緊張していた。


産むにあたり、子供を育てる覚悟が足りなかったのか?と言われると、それも違う気がする。上記のことは全て当たり前だと思っていたし、やるつもりでいた。みんなやっているのだから自分もできるんじゃないか、と思っていた。知らんけど。

 

帰省から1ヶ月、入院して1週間半経った今は落ち着きを取り戻し、出産前の精神状態に戻れている。ここ数日睡眠のリズムが乱れがちだが。しかし、いざ子育てに戻り娘と再び対峙してみて、また以前のように落ち込まない自信は全くない。

せっかく入院しているので、減薬を進めると同時に考え方の癖だとか、心の持ちようとかを医師と共に見直し(専門家がいると客観視しやすい)、次は余裕を持って娘と向き合えるようになりたい。

「赤ちゃんを育てていて何が辛いんですか?」

他の患者さんから聞かれた。別に娘に怪我をさせたとか、自分の不注意で事故に合わせてしまったとか、そういうのではないのに何が辛いのかと。初めての子なら育児が上手くいかなくて当然ではないかと。至極真っ当な問いである。自分の辛さを分析するためにもこの問いに答えてみようと思う。

私が辛くなったのは、里帰り出産で産んですぐ後だ。

産まれた時、娘は新生児多呼吸ですぐにNICU(新生児特定集中治療室)に連れて行かれた。母子同室の病院であったが、そのため出産後の入院期間の大半は離れて過ごした。娘に面会できるのは1日に1時間半だった。最初は母親である私の退院に娘の退院が間に合わないと言われたけど、娘は頑張ってくれて、入院最後の晩は共に過ごすことができた。

退院後、私は(新米ママさんがおそらく皆そうであるように)戸惑った。生まれて初めて新生児と過ごすのである。2時間に1度のミルク(私は母乳が出なかった)。娘はミルクをゴクゴクと音を立てて飲んだが、さて何ml飲んだかなと哺乳瓶をひっくり返しても全然減っていなかった。一回の授乳に40分かかるのはザラだった。夜の寝かしつけにも苦戦した。寝ない。ミルクをあげて、飲むのに疲れて腕の中で寝たとしても、布団に寝かせると目を覚ます。背中スイッチとは言い得て妙だ。そして夜泣き。いつ娘が起きるのかわからない緊張で私は眠れなかった。夜中に一回泣かれ、オムツを替えてミルクをあげて、また寝かしつける。やはりなかなか寝てくれない。これに1時間。初めて夜を一緒に過ごした時、何をやっても寝てくれなくて泣いた。ミルクをあげて抱っこしても何時間も寝ない。その時は母がもう一度ミルクをあげたらすんなり寝た。自分の情けなさに泣いたら、初めてなんだからわからなくて当然じゃん、と言われた。

母は産後間もない私を気遣ってくれ、娘が産まれてから実家にいた1ヶ月半の間半分以上夜を担当して私を寝かせてくれた。恵まれていたと思う。だが私の心は休まらなかった。朝起きるのが辛い。娘と会うのが辛い。朝起きて娘の顔を見るとネガティブなことを考えてしまう。そんなことを考える自分に驚き、必死でその思いを打ち消す。可愛いとも思えない。

母はなかなか朝起きられない私に苛立っているように見えた。母だって、夜中起こされ孫娘の面倒を見るのは楽ではない。母が自分に対して常にイライラしているように見え、母との関係がギスギスし始めたー母はそうは思っていなかったようだが。私は実家から逃げ出したかった。コロナ禍での里帰り出産のため、兵庫の自宅と実家との間を行き来できず6月からずっと夫と離れて暮らしていた。夫と一緒に育児がしたかった。

夫が11月から2ヶ月半育休を取ってくれたのに合わせて、兵庫の自宅に戻った。夫と2人であれば、時間のかかる寝かしつけも、深夜起きるのも少し気が楽だった。だが娘を可愛いと思えないのは続いた。日中も全く楽しいと思える瞬間が無い。ひたすら辛いという感情だけがある。一緒にベビーカーで近くの公園に散歩に出ても辛い。近くのショッピングセンター(ファミリー向けで、ベビーカーでどこにでも入れる)にコーヒーを飲みに行っても辛い。とにかく気分が晴れない。常にミルクやオムツのことを気にかけ、大丈夫かとオロオロする。夜はバタバタと、ご飯を作ってご飯を食べて娘をお風呂に入れて寝かしつける。息つく暇もない。夫の育休が明けたら私一人でなんとかなるのか、私も周囲も心配だった。

生後3ヶ月ごろから、娘は夜寝てから朝まで一度も起きないでいる日が増えた。手がかからない子なのに、苦しんでいる自分が情けなかった。

1月半ば、夫の育休が終わり、平日日中は私一人で娘の面倒を見ることになった。最初の2週間は頑張れたが、その後崩れた。身体が動かなくなった。とにかく身体を起こしているのがしんどい。娘の隣に布団を敷き横になり、最低限ミルクをあげてオムツを替えることだけして、あとは死んでいないかを見ているだけの日もあった。泣いてもすぐに抱っこできず、泣かせっぱなしにしている時間も多かった。赤ちゃんは放っておいても機嫌良くしてくれているわけではない。赤ちゃんだって、天井を見てばかりいてもつまらないのである、多分。娘は生後2ヶ月ごろから、抱っこして歩き回らないと泣くようになった。これが私にはキツかった。要求に応えようとしても、抱っこして部屋をぐるぐる回っているだけなのは精神的にも、身体的にもキツい。腕がパンパンになる。泣かせっぱなしにしていると、罪悪感で身を切られるようだった。

決定的だったのは、2月からの離乳食の開始である。市の保健師さんの言う通り、生後5ヶ月から食べさせ始めたが、とにかく食べない。嫌がって泣く。怒る。「アレルギーが出た時のため初めて食べる食材は赤ちゃんが機嫌のいい午前中にあげましょう」(小児科に行けるから)というのがどの離乳食本にも書いてあることで、これを実行すべく、娘が一日の中で一番機嫌のいい寝起きに食べさせようとしたのだが、私は朝が弱い。朝起きて、不慣れなまま食材をチンして、食後のミルクも用意して娘にあげるが、食べてもらえない。全然離乳食本通りに進まない、そんなスプーンに何杯も食べない。それが毎日、何週間も続く。これが地味にこたえた。はっきりとした希死念慮に苛まれるようになり、「死にたい」という気持ちで目が覚めるようになった。

そこで、市役所に相談した。子ども福祉を担当する部署の人に電話をかけて、離乳食が始まってから死にたい、と話した。市の人はゆっくり話を聞いてくれて、まず離乳食は朝一番にあげなくても良いと言い、市の栄養士さんが私の家を訪問するよう手配してくれた。栄養士さんがうちに来て何するんだ??と思ったが、その栄養士さんは離乳食のプロで、実際に私が娘に離乳食をあげるところを見て、色々とアドバイスをくれた。曰く、娘は生まれて初めてミルク以外のものを口にしていて、脳がびっくりしているのだと。ほんの少しだけ口に入れてすぐに手を引っ込める。たとえ微妙な顔をしていても口をあむあむしていれば、それが味わっているということ。今はとにかくミルク以外の味に慣れてもらうのが大事で、量は全く気にしなくていい。

栄養士さんはその後1ヶ月ほどの離乳食スケジュールも立ててくれた。非常に楽しく温かい方で、私はプロの意見が聞けて少し落ち着いた。

 

踏切に行って自殺しようとして失敗した、というツイートをしたら、何人かの方から「医師の診断書があれば保育園を利用できる」との情報をいただいた。市の保健師さんに聞いたところ、親の障害・疾病も保育の事由となると言う。私の街では、精神障害者手帳の2級以上があれば診断書がなくても手帳だけで申請ができる。保育園!働いていなければ利用できないと思っていたが、利用できるのか…

こんなに小さくて、まだ0歳なのに預けていいのか?と悩んだ。しかし、身体が思うように動かない時間が多く、申請しようと決めた。

3月終わりから4月頭にかけては、子育て支援センターに何回か行った。支援センターには3歳以下の子供が遊べる部屋があり、おもちゃも沢山置いてあって、職員の方とも話せるし、他の子供の親とも交流できる。そこでハイハイする他の子を見て、その速さにゾッとした。「今、娘は横になっているだけだから、私が鬱の時にも寝かせっぱなしにしておけるが、動き始めたら本当に目が離せない。私一人では安全を担保できない。」果たして保育所の申請が通るか、不安に悩まされるようになった。多くの子供が入所する4月入所の申請には間に合わず、5月入所で申請書を提出したのも、大きな不安要素だった。

保育園に入ってすぐの頃は子供はよく熱を出すと聞く。たとえ申請が通ったとして、子供の病気に都度対応できるのか?取らぬ狸の皮算用もいいところだが、そんな不安にも襲われた。

幸い、第一希望が通り、家から一番近い保育園に通えることになった。しかし今度は「娘が病気になったらどうしよう」という不安が胸を占めることになる。きちんと小児科に連れて行けるのか。熱を出して、吐いたり下痢をしたり、ぐずりつづける子供の面倒を見られるのか。

不安を抱えたまま、GWに突入。長期休みに入った夫に娘の世話をほとんどお願いし、ほぼ寝込んでいた。辛くて辛くて、とにかく泣き続けた。夫が娘を連れて義実家に帰り、しばらく一人にしてくれた時も私は泣き続け、ほとんどの時間を布団で過ごした。

離乳食も頭を悩ませ続けた。思うように進まない。食べてくれない。頭では適当でいい、食べない子は食べない、進み方は人それぞれ、とわかっていてもダメ。テキトーに、と言われても、具体的にどう行動すればいいのかわからなかった。それよりも自分を責めた。私の今までの進め方が悪かったのではないか。私の離乳食の作り方が悪いから食べてくれないのではないか。本当は栄養を色々摂らなくてはいけないのに、こんなに食べなくて大丈夫なのか…という不安もあり、離乳食をあげるたびに号泣していた。

GW明け、慣らし保育がスタートした。初めて保育園に預けた日の感想は、「たとえ1時間半であっても、保育のプロに預かってもらえて、安全が担保されているというのは良い」というものだった。短い時間でも休めるのがありがたかった。

保育園3日目の朝、娘の体温は37.5°だった。登園できないので休ませる。昼になるに連れ熱は上がり、38°を超えたため小児科に連れて行き、下剤をもらった。

その次の週、義母から「入院すべきだ」と言われた。最初、私は呆然とした。幼い子を置いて入院?そんなことできるのか?しかし義母は自分が娘の面倒を見るという。私はとにかく休みたかった。泣きながら、震える手で「入院したいです」と返事を打った。私は娘が保育園から帰ってくるのが怖かった。娘が怖い。娘の顔を見ただけで泣くようになり、娘が怖くて触れなくなった。義母と実母の助けを得て、主治医から紹介状を入手し、入院できる病院のある故郷へと帰った。

 

そもそも子育ては無職で好きな時間に休んでいた頃に比べれば体力的・精神的にハードモードであるのだが、まず「辛い」という感情が確固たる理由もなく心を支配し続け、娘に対してネガティブな感情を抱き続ける自分自身に罪悪感・嫌悪感を抱き、楽しい感情が一切湧いてこないことに苦しみ続けた。日中娘の世話を一人でしなければならなくなってからは、身体が思うように動かせない、身体を起こしていられない苦しみに加えて、娘の世話を十分にしてやれない、泣いていても泣かせっぱなしにしている罪悪感に苦しんだ。そして、自分自身不合理だと思うが、とにかく自責の声が大きく聞こえてしまうのである。子育ては適当でいい、育児ノイローゼになるのは皆んな一緒、などと色んな人に「大丈夫、そんなもんだよ」的なことを言われても、私の脳は私を責め出す。子育てしている他人と比べて、「普通の人と比べて気力体力が昔から劣る自分は、子供なんて産むべきじゃなかった」と自分を責める。

今まで鬱に襲われた時、私は逃げることで最終的に解決してきた。サークルから逃げた。仕事から逃げた。休職と復職を繰り返して、最終的に気力が尽き会社を辞めた。もちろん、そこまでに散々足掻くしもがくのだが、最後は逃げている。だが、子育てから逃げ出すことはできない。生み出した命をなかったことにはできない。

今、私は一時的に病院に逃げている。しかし、いずれは娘の元に戻らなければならない。これまでのように、逃げ続けることはできない。今回の治療が功を奏すことを願うばかりだ。

べき思考に捉われて(認知行動療法やるぞ)

今日から認知行動療法をやることになった。

どういうことかというと、まず何か出来事があり、スキーマ(その人の性格や特性など)があって認知が決まり、それが気分に繋がり行動に繋がり、身体症状が現れたりもする、というのが大前提としてある。

例を挙げると、例えばデートの待ち合わせに相手が来なかったとして(出来事)鋼のメンタルの持ち主(スキーマ)は一人の時間ができた(認知)と喜び(気分)、映画に出かけたりする(行動)。これが凡人(スキーマ)はふられたのではないかと思い(認知)悲しみ(気分)胸が不安でドキドキしてきたりする(身体症状)。

これらのうち、気分と身体症状はどうしようもないから、認知もしくは行動を変えてなんとかしていきましょうよというのが認知行動療法、らしい。

 

ここで、認知の偏りにはいくつかタイプがあるとの説明を受けた。

・決めつけ

・白黒つけようとしすぎている

・部分的焦点づけ(全体を見ずに変なところだけクローズアップしてしまっている)

・べき思考(○○するべき に捉われすぎ)

・一般化しすぎている

・自己関連付け(過度に自分のせいにしている)

・情緒的な理由づけ(腹が立つから など理不尽)

 

入院して考え直したことがある。私は自分に対してべき思考をぶんぶん振りかざし、それに合格しない自分を責めまくる人間だが、時として(ごくまれに?だと思いたい)他人に対しても自己の規範で怒ってしまう、ということだ。「そうするべき/べきではない」とはっきり相手には言わないことが多いものの、ハイハイと黙って受け流せず内心怒る→感情が顔に出やすいタイプなのでムスッとしてしまうのである。そして残念ながらその規範が一般的ではなかったり、一般的であっても他の人だったら軽く受け流せるのにやたらと自分だけ怒ってしまったり、周囲との温度差が生じる。これがものすごいストレスに繋がっているのではないか。

私は「出されたメシに対して文句を言うべきではない」という規範を内在化して育った。食べながらイマイチだと思っても不味いと言わない、嫌いなものが出ても嫌いだといちいち言わず黙って残す。そもそも食べ物の好き嫌いが少なく、納豆以外なら何でも食べるのだが。不味いとか嫌いとか言うとメシがますます不味くなる。

ところがこの規範、思ったより一般的ではないようなのである。入院生活で他の患者さんたちから病院のご飯に関する文句やら、好き嫌いやらの話をよく聞く。その度に嫌な気分になる。私は好き嫌いがなくほとんど美味しくいただいているのだ、不味く感じるようなことはよしとくれ。そもそもそれって大の大人が口にすることかいな!と思ってしまうのだ。

しかしこの「ご飯が不味い/嫌いで食べられない」言説、意外と口にする人が多いのでびっくりしている。もしかしたら私の常識は世間の非常識、私の方がマイノリティなのかもしれない。

という訳で、もし私とご飯に行く方がいらしたら私の前でメシの悪口は言わないようお願いいたします。

お父さんお母さん、好き嫌いが少なく育ててくれてありがとう!抜群に生きやすいです。サンキュー。