10:44 AM

日々

夢と自己能力感と楽観主義

私はコンプレックスがひどく、ほんのちょっとしたリア充話を聞くだけでも気分が悪くなってしまうことがある。私が悪いのは認める。

 

特に大学時代の話は地雷。私は大学時代、無気力と鬱に悩まされ、学業もバイトもサークルも何ひとつ夢中になることができなかった。わざわざ親に大学に行かせてもらったのに、それが恵まれていることもわかっていたのに、何も成し遂げられなかったのが辛く、罪悪感もひどかった。

それが、「自分はこれを頑張っている/いたよ」、とか、「学業が面白くてしょうがない」「自分にはこんな能力があると思うんですよね、自信があります」などと話されるとものすごく辛くなることがある。自分は何もできなかったし、今でもできないから。

「こんなことをしたいんだ!」という夢。「こんなことができるんだ」という自己能力感と楽観主義。聞いていてとても眩しいが、一方で相手の話し方によっては気分が悪くなることもある。「お前の自慢話なんて聞きたくないんだよ!!!!」。もう辛い。飲み会の席を立ちたくなる。

 

自分の好きなことや頑張っていることをにこにこ話す時、相手に単なる自慢話ととられるか、「ウゼェ」と思われるか、逆に「もしかしたら自分にも新しい世界が広がっているのかも!」と希望を持ってもらえるのかって紙一重だと思う。その違い、コツが知りたいなあ。自分も「自慢話を聞かされるのは嫌だなあ」と思うことは多々あるので。

 

夢と自己能力感と楽観主義を語られる時、羨望と嫉妬と絶望の闇に叩き落されることもあれば、それに救われることがあるのも事実なのだ。

 

私は、相手の自己能力感と楽観主義に救われたことがある。社会人になってから台湾に遊びに行った時、台湾人の友人(当時学生)から「僕はいつか留学したいと考えているんだ」と夢を語られた。彼は自分の未来を信じていた。その時私は純粋に彼を応援したいと思い、「自分はもう大学を卒業して留学のチャンスはないけど、仕事などを通じて別の形で自己実現できるんじゃないか」「もっと未来に対して希望を持っていいんじゃないか」と思えた。その頃仕事は決して上手くはいっていなかったが、そう思えたのである。大らかで楽観的な台湾の風土にも影響されたのかもしれない。実際彼はその後オランダに留学に行った。努力の賜物である。

彼の話を聞いても自分まで希望を持つことができたのは、彼が私の能力を信じ、私の仕事に敬意を払い、私をとても尊敬してくれていたからだと思う。「あなたはとても礼儀正しいし、easygoing(楽観的)だし、とても頭が良くて能力もある。あなたと話していると本当に楽しい」と、マジでダメダメな私に対して彼は何度も褒めてくれた。決してお世辞ではなかったと信じている。

 

例えば、病気のことでもそう。自分と同じ病気を抱えつつも仕事を持ち社会生活を送れている人を見て、「自分には無理だよ、ケッ」と思うか、「自分にもできるようになるのかもしれない、落ち着いて治療に取り組もう」と思うか。その違いは何なのだろう?

きっとそのひとつは、「あなたにもきっとできるよ」「絶対良くなるよ」という、心からの言葉。とにかく自分を信じてくれている、その安心感が大きいのである。

 

あとは謙虚さ。これは本当に大事。うちの夫も大学で物理学にのめりこみ楽しみまくったクチで、付き合いはじめの当初は物理学の話ばかりされたんだけど(笑)、全然嫌じゃなかった。理系の人の中には文系を馬鹿にする人が一定数いるように思うが、彼は私の専攻(社会学)を馬鹿にすることなく、そこにも広くて深い世界が広がっているのだろうと、自分は勉強していなくても推測し、尊敬してくれたのである。

 

なんだか、夢とか自己能力感とか、話すこと自体は悪くないんですけど、もしかしたら「相手のことを信じていますよ。あなたの人生も素晴らしいものだと思いますよ。とても尊敬していますよ。」ということを示しながら、謙虚な姿勢で言いたいことを伝えるのが大事なのかもしれない。何かの悪口を言ったり、明確にdisらなくても、相手の気分を害することはあるのだ。常に相手への敬意を忘れないようにしたい。